近代以降1822年、清王朝は宮廷医院内の...

近代以降

1822年、清王朝は宮廷医院内の鍼灸院科の廃止を宣言するなど西洋医学の流入と共に伝統中国医学の衰退が始まる。中華民国時代、袁世凱は伝統中国医学を禁止しようとしたが強い反発に遭う。

中世

宋代から元代は鍼灸院を含め医学分野の充実が見られるが、金元医学の中心は主に湯液によるもので、元の滑寿は『難経本義』の中で「難経などの古い鍼灸院書を捨てて、新しい湯液に走るのは薮医者である」と諭している。

資格制度の変遷

 ・明治44年(1911年):内務省令「按摩術、鍼術灸術営業取締規則」制定。
 ・大正9年(1920年):フランスから入ってきたマッサージ術と柔道整復術が按摩営業取締規則の附則に入る。
 ・昭和20年(1945年):敗戦。GHQ(進駐軍)のPHW(進駐軍衛生部)により医業以外の治療行為を全て禁止するように勧告がなされる(所謂マッカーサー旋風)。これを受け、厚生省は昭和22年1月の医療制度審議会において、

・按摩・鍼灸院・柔道整復は、医業の一部として治療行為を許可する
・按摩・鍼灸院・柔道整復は、教育を高度化させ、国家試験を実施する

と答申。
 ・昭和22年12月(1947年):「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が成立。これにより按摩・鍼灸院・柔道整復の免許は、明治以来の営業鑑札(鍼術・灸術営業者)から、国家資格の身分免許となる(※但し、営業免許ではない(国家資格の身分免許)であることを明確にさせた方が良いと、昭和26年4月に「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法」に名称変更される)。
 ・昭和30年(1955年):「あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法」の「あん摩」が、「あん摩(マッサージ、指圧を含む)」と変更。
 ・昭和53年(1978年):鍼灸院を専攻する初の3年制短期大学設置(明治鍼灸院短期大学)。
 ・昭和58年(1983年):鍼灸院を専攻する初の4年制大学設置(明治鍼灸院大学)。(明治鍼灸院短期大学が大学に昇格したもの)
 ・昭和62年(1987年):国立初の鍼灸院学科を擁する3年制短期大学設置(筑波技術短期大学・鍼灸院学科)。
 ・昭和63年(1988年):「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」の改正により、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師及び柔道整復師に関わる試験の実施と登録事務が、都道府県知事から厚生大臣に変更(平成4年10月施行)。
 ・平成3年(1991年):鍼灸院関連の大学院修士課程が初めて設置(明治鍼灸院大学)。
 ・平成6年(1994年):鍼灸院関連の大学院博士課程が初めて設置(明治鍼灸院大学)。
 ・平成16年(2005年):国立初の鍼灸院学科を擁する4年制大学設置(筑波技術大学・鍼灸院学科)。(筑波技術短期大学が大学に昇格したもの)


概要

中国を中心に東アジア各地で近代まで行なわれてきた医療の主流は、生薬を用いた「生薬方」と、物理療法である「鍼灸院」である。診察手段が「体表観察」と「触診」のみしか無かった古代から近代にかけて、体表面からの病態診断法(「証」と呼ばれる病態の分類法)が発達し、それに対応する治療的技法として、生薬方と鍼灸院を二本柱とする治療技法の体系が成立した。つまり鍼灸院は東アジアにおける医療技法の片翼で、生薬方に対置するものである。

これら生薬方と鍼灸院は、東アジア各国で地域に対応した発達をみたが、特に日本においては、江戸期に技法と技術体系の目覚しい発達が独自になされたことが知られる。すなわち、生薬方は「漢方」として日本独自のものとして発達し、鍼灸院も「鍼管(ストロー状の外筒で中に細い鍼を入れるもの)」の発明による鍼の細径化とそれに伴う手技の変化と体系化が成し遂げられた。日本産の生薬方である「漢方」と、日本産の鍼管を用いた鍼灸院を併せたものが、従来「東洋医学」と呼ばれ、第二次世界大戦後、共産中国において国策として成立した「中医学」と区別されてきた経緯がある。

日本においては、生薬方を用いる医師と鍼灸院を用いる鍼灸院医は、早い時代から分業化していた事が知られているが、分業が決定的になったのは江戸時代の盲人政策による。幕府の政策として「按摩」を盲人の専業として規定したところから、手技が連続する鍼灸院も時を経ずして盲人の職業となっていった。これにより、日本においては、一般的な生薬を用いる医師(漢方医)と、盲人による鍼を用いる医師(鍼灸院医)が医療の担い手となる。

盲人が鍼灸院を担った歴史は世界の鍼灸院を見渡しても例が無く、日本の鍼灸院は非常に特異な経緯を辿ったものと言える。先述の鍼管の発明や、技法の独自発達も、これら視覚の不自由な術者が技法を担ったことにより為された側面が強く、江戸時代の盲人鍼灸院医が果たした役割は非常に大きい。幕末から明治初期にかけての西欧医学の導入に際して、漢方医は比較的スムーズに西欧医に移行したが、鍼灸院医については、当時の西欧医学には対応する技法も無いため医療職からは除外され、「盲人の職業保護」との名目で、慰安業としての、はり・きゆう・按摩の資格と盲学校が残された。しかし、実際には、明治天皇はじめ鍼灸院に信頼を寄せる人々も多く、鍼灸院は現実には戦前までの国民医療の一端を担ってきたのが実情である。

戦後、それまで営業鑑札であったはりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっている。

なお、医師法との整合性については、「あんまマッサージはりきゆうに関する法律」第一条により、鍼灸院に関連する医療行為に関しては、医師法第19条の部分解除という形で認められている。

古代〜中古

鍼灸院の発生起源は詳しくは分かっていないが、春秋末から戦国時代には、「灸」はすでに用いられていたようで、「孟子」に灸治療に対する最古の記載がある。現存する医書として実際の鍼灸院治療法が記載される最古のものとしては、馬王堆漢墓(前漢・B.C.168)出土の竹簡と帛書(はくしょ=絹に書かれたもの)に、「足臂十一脈灸経」「陰陽十一脈灸経甲本」「脈法」「陰陽脈死侯」「五十二病方」等と名付けられたものがあるが、これらは全て「灸」に基づいた治療法の書である。施灸点としての「経穴」や「経絡」という概念も登場しているが、これら経絡・経穴に対する「鍼」の適用法が確立したのは、後漢(~A.D.3世紀)の時代とされる。現在も活用される鍼灸院の古典医書『黄帝内経(A.D.3世紀成立)』は、前述の出土医書群の直系とされているが、記述される内容は、完全に「鍼」が主体の体系にシフトしている。これは、前漢から後漢に至る2〜3世紀の間に、本来「灸」による物理療法として生まれた治療技術体系が、「?石」(へんせき=石のメスによる瀉血)療法等を包含し、より簡便な「鍼」による物理療法として発展したことを示すものと考えられている。「灸」で見出された体表面の治療に役立つ部位(経絡・経穴)は、「鍼」による刺激にも対応する事が発見され、発展を見たわけである。
その後「灸」療法が廃れたわけではなく、病態に対応した「灸」と「鍼」の使い分けがなされ、「鍼灸院」として活用されて来た。『黄帝内経』の『素問』異法方宜論篇には、華北平野の北方より「灸」が、東方より「?石」が、南方より「九鍼=鍼」が、西方より「生薬方」が起こり、中央の「導引(気功=按摩・ストレッチ)」と合わさって、当時の医療技術を形成した伝説が記されている。その後これら鍼灸院技法は、陰陽五行思想と融合し、独特の治療体系を形成していく。

この時代の鍼灸院を担った著明な医家としては、史記列伝に名を残す『難経』の著者扁鵲や、三国時代「魏志」に登場する華佗、『鍼灸院甲乙経』を編纂した皇甫謐などが居る。

専門学校

専門学校(せんもんがっこう)
 ・「専門課程」を置く専修学校が称する事のできる名称学校教育法 第百二十六条の二
 ・: 「専門課程」を置く専修学校だけが称することができる。高等課程や一般課程を置く専修学校であっても、専門課程を置いていなければ「専門学校」と称することはできない。ただし、専門課程さえ置いていれば、高等課程を置いていても一般課程を置いていても、使用できる名称である。すなわち「専門学校」の語を名称に含む専修学校の「専門課程」に在籍する者がいるのはもちろんのこと、「専門学校」の語を名称に含む専修学校の「高等課程」に在籍する者もいるし、「専門学校」の語を名称に含む専修学校の「一般課程」に在籍する者もいる。''詳しくは「専修学校」の項目を参照のこと。''
 ・旧制専門学校。専門学校令にもとづく。


学校教育法第一条に掲げるもの以外の教育施設で、職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し、又は教養の向上を図ることを目的として組織的な教育を行う教育施設であって、
・修業年限が一年以上
・授業時数が文部科学大臣の定める年間授業時数(800時間)以上
・教育を受ける者が常時40人以上
の各号のすべてに該当する教育施設である専修学校(学校教育法第82条の2)のうち、専門課程を置くものは「専門学校」と称することが出来る。(同、第82条の4第2項)

 ・戦後の日本では、専門学校が誕生する前は、高校・大学卒業と、各業職毎に直接就職し、0から全てを学ぶ住み込みというやり方が一般的であった。団塊の世代と呼ばれる人たちの多くも住み込み経験者が多い。専門学校と違い、住み込みの場合、経営者や先輩クラスの人たちの元で全ての仕事を0から教わるため、時には理不尽なシゴキを受けることも多かったが、それらを乗り越えることで今日の日本を築く礎となった技術が培われたといっても過言ではない。


東京

歴史的に、江戸時代の御府内(江戸の市域)を中心に東京が形成された。これはおおよそ旧東京市15区(麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区)にあたる。その後、特別区は再編・拡大され、現在の東京23区となった。

不妊治療

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大塚

大塚(おおつか)- Otsuka, Ohtsuka

 ・地名
  ・東京都の地名。本来は文京区の地名だが、JR東日本山手線・都電荒川線の大塚駅開業後は駅の所在地である東京都豊島区南大塚、隣接する北大塚、およびその周辺の地域(南大塚、北大塚を含め、旧来巣鴨と呼ばれた地域の一部)を指すことも多い。文京区の大塚については大塚 (文京区)を参照。なお、豊島区南大塚は文京区大塚の北に位置する。
  ・東京都八王子市の大塚 (八王子市)
  ・宮崎県宮崎市の大塚地域自治区
  ・:その他、日本各地に「大塚」という地名が存在する。
 ・日本人の姓の一つ
  ・大塚愛(歌手、シンガーソングライター)
  ・大塚晶則(メジャーリーガー)
  ・大塚明夫(俳優)
  ・大塚周夫(俳優)
  ・大塚範一(ニュースキャスター、司会者)
  ・大塚芳忠(声優)
  ・大塚寧々(俳優)
 ・企業の名称
  ・大塚製薬
  ・大塚食品
  ・大塚化学
  ・大塚製薬工場
  ・大塚化学ホールディングス
  ・大塚ベバレジ
 ・:以上ここまでは大塚グループの企業。
  ・大塚家具
  ・大塚商会
 ・:この2社は大塚グループとは関連が一切ない。

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